~走る。パーソナルトレーナーの戯言。~
2023さくら道国際ネイチャーランへの挑戦。2018年に初出場した私は2019年を含めても完走2回の若輩者ですが、コロナ禍を乗り越えて再開される今年、並々ならぬ思いで望みたいと思っております。
完走、新たな誓いを立てる。
スタートラインはお互いの近況を報告しあう同窓会さながらの雰囲気に包まれていた。前日の開会式からそうだった。これから長く苦しい戦いが控えているというのにもかかわらず、そんなことを微塵も感じさせない。きっとキツイとか苦しいなんてことはこれっぽっちも考えていないんだろう。ここに集まる人はみんなそうだ。豪快に快活に好きなことを謳歌している。ウルトラマラソンを通して人生を豊かにしているのだ。
コース上に点在する50のエイドステーション。地元の中高生や、ボランティア、出場するランナーの仲間たち、そして出場が叶わなかったランナーの有志、わずか百数十名のランナーに対し、その何倍もの数の人が「さくらの道」に彩りを添える。それだけではない。ランナーの安全を見守る運営者や、この日まで準備を進めてきた事務局の人間を含めたら、相当な数に違いない。きっと採算なんて取らずにやっているのだろう。いやそれどころか、自らのお小遣いを投じてまで、ランナーを振る舞うために豪華な馳走を給仕してくれている人もいるのではないか。そんなことを想うと感謝の言葉が見つからない。ランナー、ボランティア、地元民、事務局、さくら道に関わる全ての人が名古屋城から兼六園まで、それぞれのタスクを背負い、一本の道をつくり上げているこの日、この瞬間がたまらなく好きだ。人と人とのつながりが、一筋の長い線をつくりあげている。それだけでもう既に、さくら道は完成しているのだとつくづく思う。さくら道とは単に道に桜を植えるためだけではない。そういった活動を通して、人のつながり、絆を深め、尊重しあい、そして繋いでいく。佐藤良二さんが本当にやりたかったことはそういうことではないか。と大会関係者が仰っていた映像を目にしたことがある。全くもって、異論を挟む余地なし。だ。そして、私はランナーとしてのタスクを遂行するために、自分に出来ることを、文字通り全身を使って表現をするのだ。
スタートはウェーブ方式。20名が7組に分かれてそれぞれ3分おきにスタートする。一般的なマラソン大会なんかは早い順に並ぶのが当たり前なのだけど、さくら道は実力者や大御所になるほど後の組になる。大相撲方式。紅白歌合戦方式を採用しているのだ。これは参加者を少人数に絞っているからできる事であって、この方式の良い点は、速いランナーが後から追いついてくるので、トップ選手の走りを肌で感じられるというところ。24時間走の日本代表クラスやスパルタスロンの上位入賞者なんかが、いい足音鳴らして近づいてくるもんだから、思わずじっくり見とれてしまうのである。
250kmを36時間。これがどのくらいの余裕度なのか?走ったことがない人は分からないかも知れないけど、単純に割ると1kmを8分38秒。なんかイケそうじゃん、と今思った方、ノンノンン、これがなかなか結構なのだよ。このペースでは歩けないので、走るしかないという事が前提で、前半で貯金を貯めて走って、後半調子にのってに歩きすぎると、すぐに極貧生活到来、という事態に陥るのである。それに加えて、名古屋から兼六園に向かうには、ひるがの高原だとか、白川郷だとかの、山あいを通過せにゃならぬもので、さらにさらに夜の山は寒くて、4月でも気温5℃なんて時もあったりする。つまり、1kmを8分38秒なんていうでっかい物差しを持っていても、全く使えんシロモノで、安物の脆弱な鍵付きキャビネットに超極秘資料をしこたま詰め込んで安堵する。管理体制は万全です。などとぬかす愚行に等しいのだ。要するに、走力はさることながら、自分の実力と刻一刻と変化する外的要因とを客観的に把握、判断してコースマネジメントをする。という極めて高度な作業が必要であり、それは日々の自己管理能力が問われている、といっても過言でないのである。
私が初めて出場した年は、ここ数年にないくらいの暑さだった。とレース後に聞いた。やっぱりそうか、と思った。愛知から岐阜を縦断し富山、石川へと続くコース。地理的にもまだ肌寒さを感じる4月、ほとんどの人が寒さ対策に舵をとる。もしこれが秋の開催であれば、多少暑かったとしても、夏を過ごした経験により身体が順応するたろう。しかし冬を終えたばかりの4月の時点では誰もが暑熱順化できていないのだ。予想を超える気温の高さに多くの実力者たちが苦しんでいた。若輩者の私だって例外ではない。今となってはほとんど記憶に残っていないが、暑さでやられないよう、励ましあいながら集団をつくって進んでいったという事だけは、はっきりと覚えている。
5,6人の集団で付かず離れず走っている。時々会話を交わす時もあれば、無言で黙々を走る時もある。前を行く人の背中を追い、私の背中を追う人がいる。ロングレースにおける集団走の大切さを身をもって感じる瞬間だ。ただ意味合いは、マラソンや自転車ロードレースの集団走などと、まったく違うと思っている。そこには駆け引きや、出し抜きといった行為が存在しないのだ。己が勝つ事を前提とした意図的な集団を形成しているのではなく、そこにいる全員が完走するためにお互いの力を持ち寄ることで、自然と形成されているのだ。ロングレースの終盤の局面ではこのような集団がいくつも形成される。200km以上の距離を走ってきた互いをリスペクトして、絶対最後まで頑張りましょう。などと言葉を交わし合う。そこにエイドのスタッフさんの、温かいおもてなしや、沿道の熱い応援なんかが加わるのだから、自分でも気付かなかった力が湧いてくるのだ。嘘ではない。本当の事だ。あの時、あの人が、声をかけてくれなかったら、なんてことはザラにあるのだ。ない時もある。でも思い起こせば大抵はある。
完走証。それは、まな板みたいだった。このような表現では、つくってくれた方に大変失礼なのだろう。しかし語彙力が乏しく稚拙な私は、これ以上にふさわしい言葉が思いつかない。ほら、あの人もまな板って言ってるし、ほらほら、あっちの人も。ちょっと薄い少年ジャンプ(この表現も失礼極まりないが)くらいの大きさの木でつくられている大変立派な完走証。名前も記録もレーザーかなんかでしっかりと彫り込まれている。素晴らしい。
完走証を買ってもらったおもちゃの様に抱きかかえては、眺める。という行為を繰り返していると、そんな無邪気かつ不気味な私の姿がよほど気になったのか、隣の方がねぎらいの声をかけてくれる。いやぁ、ホントにきつかったけどこれを手にするとしないじゃ違いますよね。などと喜びを分かち合う。記録的酷暑の中で初出場、初完走を果たし有頂天になっていた私は完全に呆けていた。いつになく調子よくベラベラ喋っていた。これ、なんの木ですかね?やっぱり桜かな?などと、阿保を晒しまくっていた。んなわけないだろう。桜を植える活動をしてるのに桜の木でつくってどうするんじゃ。本末転倒も甚だしい。
2018さくら道国際ネイチャーラン。私が初めて出場を果たした時の事だ。「来年はさらに強くなって帰ってきます。」そう誓いをたてる。④へつづく ①へ戻る ②へ戻る
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