~走る。パーソナルトレーナーの戯言。~
2023年4月21~24日に開催される「さくら道国際ネイチャーラン」への出場が叶いました。2019年を最後にコロナの影響もあり、開催されていませんでしたが、ついに再開されます。私の人生を豊かに変えた、とても重要な大会です。あと3か月、真剣に向き合っていこうと思います。はじめて「さくら道」を知ったとき、はじめて走った時の事を思い出しながら長々と脈絡なく書いています。
『名古屋城~兼六園』250km ウルトラマラソンレース
ランニングを始めて、ウルトラを走り、随分とハマって、体の半分くらいがウルトラマラソンの世界へ浸かりだした時くらいだろうか。ランナーたちの会話の中で「桜道」という言葉をしばしば耳にする事があった。家の近くにちょうど「桜道」という布団屋があったものだから、なんで俺の地元の布団屋の話をしているのだろう。もしかして布団屋の店主は有名なランナーなのか。などと思ってみたもののそんなわけはなく、その後、特に気に留めることもなかった。
そして、ある時。レースで知り合った友人とランニング談議で盛り上がっていると、「今年の桜道に出るんですか?」などという質問を受けた。あっ、また桜道。不意を突かれて、あいまいな受け答えに終始した。ウルトラやっててそんなことも知らぬのですか?アホンダラですね。といわれそうでなんとなく恥ずかしかったのと、タイミングを逸した事で、桜道って何ですか?の一言が切り出せず、のちの自分で調べる事となった。たぶんこのあたりが僕がはじめてさくら道と対峙した時のことだったと記憶している。
太平洋と日本海を結ぶ266㎞の道を、桜のトンネルで結ぼうと決意した男がいた。御母衣ダム工事で、水没する山寺の樹齢400年を数える桜の古木が移植され、見事に蘇ったその生命力に感動したからである。その男は、名古屋と金沢を往復するバスの車掌・故佐藤良二氏である。彼はバスの走る道沿いに、桜の苗木を黙々と植え続けた。乏しい蓄えを注いだ。少ない休暇を使った。2,000本も植えただろうか。男は病に倒れた。志半ばで力尽き、逝った。47歳の短い生涯だった。清貧という言葉が改めて見直される今、「人の喜ぶことをしたい」と病魔に侵された我が身を顧みず、無償の行為を貫いた佐藤氏の生き方は、貧しくとも豊かな心を持つ、人間の幸福な姿を問いかけてくれる。佐藤氏が夢みた「さくらのトンネル」を、走り抜けるという形でその遺志を受け継ぐと共に 「太平洋と日本海をさくらでつなぐ」という大事業の完成に少しでも寄与できればと「太平洋と日本海を桜でつなごうさくら道国際ネイチャーラン」を開催する。
※さくら道国際ネイチャーランHPより抜粋
佐藤良二さんの人生は映画や書籍にもなっいる。今も尚、多くの人たちの手によって脈々と後世に語り継がれているのだ。そしてこの「さくら道国際ネイチャーラン」も例外ではない。多くの人たちが大切な思いで紡いた30年の歴史が詰まっているのである。大会要項を詳しくみると運営側の覚悟や意識の高さに驚いた、いやはや、色んな意味でなかなか格式高い大会ではないか。
この大会に憧れるランナーは多いのだ。「いつかはさくら道」などと、かつてのなんかのキャッチコピーにも似た謳い文句が交わされ、目標に向かって日々鍛錬に励むランナーにたくさん出会ってきたのを覚えている。そしてその何人かは夢を叶え、自分自身をランナーとしてだけではなく、一人の人間としても大きく成長、羽ばたき、人生を豊かなものへと変えていったのである。しかしながらその当時の私は、ようやく100kmを走り、入賞とはほど遠いけど、まあまあ上位に入れているかなぁ、レベルのランナー。そんな彼等のような夢を持つ事さえも許されぬ、うつけ者、ぼんくら、虚仮であった。当然のごとく250kmという距離に悪寒を感じて困惑する。36時間という制限時間は長いのか短いのかさえ、この時はまだ分からない。そんなことよりあーた、太平洋から日本海ってあーた、無理じゃないですか。走らなくてもよくね?などと、最終的には醜い悪態をつく始末。実力も人格も(人格については今もだが)伝統と格式の「さくら道」の敷居をまたぐには全くもってふさわしくないのであった。桜の舞台を踏む4年前「さくら道」との出会いである。②へつづく
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