~ 走る。 パーソナルトレーナー の戯言。~
郡上八幡駅に差し掛かる85km過ぎ、いよいよ走るペースで行動できなくなった。意識的に走らないと、無意識のうちに歩いてしまうのだ。私は高性能なGPSウォッチという類の代物を使ったことがない。腕にはいつも2分進んだGショックが巻かれている。淡いブルーのGショック。3代目の相棒だ。たしか1代目は黒で2代目はグレーだったかな。こいつらは余計な主張をしてこなくて実に良い。ただ黙々と時を刻むことに集中している。こいつもまた単純明快な奴だ。スパルタスロンも100マイルトレイルもフルマラソンだって頼もしく時を刻み続けてくれた。そんな奴がちょっとばかし私に不安を煽ってくる。「おい、おい大丈夫か?あんま時間ないぞ。」
1km走って500m歩く。500m走って1km歩く。100m走って2km歩く。ず~っと歩いて10歩だけ走る。たかだか数キロ先のエイドが永遠に感じる。前方にゆらゆら揺れるピンク色。「あぁ、ようやくエイドだ。あれはエイドスタッフのジャンパーだ。」どこかの店ののぼり旗が蜃気楼のように私を幻惑し、落胆させる。
90kmを過ぎる。もうずいぶん長い間、誰にも抜かれていない。きっと私が最終ランナーだろう。トボトボ歩いていると、「大丈夫?キロ6で走れば、次の関門間に合うから。」言葉少なに抜いていく一人のランナー。彼もまたかけがえのない仲間だ。人並外れた行動力と好奇心。そして鋭い観察眼を要しており、それをリアルに表現するに相応しい文才をも要している。何かと私の事を気にかけてくれる。私を世界一にしたいのだと言ってくれる。私のファンだと言ってくれる。2018スパルタスロンで彼が初めて完走を果たした時、その場に一緒に居られて本当に良かったと心の底から思った。彼もまた苦しんでいた。今回完走できなければ250kmクラスの超長距離レースは引退するのだと言っていた。それでも情熱に衰えはない。彼は四国で想像もつかないような破天荒なレースを主催している。いつかは私も参加してみたい。私は彼の期待するような世界一には到底なれかも知れないが、私もまた彼のファンとして、彼のつくった破天荒なバカロードを一緒に走りたいのだ。
97.7km。第19エイド。気力もなく覇気もない抜け殻のように現れた私に、さすがのエイドのボランティアの方々もなんと声を掛けたらよいのか分からない様子だ。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。私の後ろにまだ何人かランナーはいるのか?いよいよこの世界にたった一人取り残されたかのうな気持ちになってきた。
ずいぶん頻繁に、運営車両が私の前後を行ったり来たりするようになった。追い抜き際に速度を落とし、車窓から覗き込むように私の表情を確認している。「大丈夫ですか?」「寒くないですか?」「走れますか?」時折、声を掛けながら、疲弊する私を懸命に元気づけてくれた。正直に白状すると、もうずいぶん前から、このまま沈んだペースを刻んでいたのでは、第2チェックポイントの通過は不可能だと感じていた。どこかで辞めなくではいけない時が来る。でもその時は自分で決めたくない。誰かに肩を叩かれて終わりたい。タオルを投げ入れて欲しい。リタイアではなくタイムオーバーの方が聞こえが良いではないか。そんな見栄や虚勢や体裁ばかりにとらわれているエゴイズムの塊になった自分が嫌で嫌でたまらなかった。そして、いよいよ進むことを諦めたのである。
第20エイド手前。関門制限時間20分前。とうとう運営車両からスタッフが降りてきた。「第2チェックポイントの白鳥ふれあい公園まで、まだ5km以上あります。このペースでは絶対に間に合いません。どうされますか?」複雑な気持ちでその言葉にジッと耳を傾けた。肩を叩いてほしい。タオル云々と言っておきながら、実際にこの瞬間に直面すると急に悲しくなった。取り返しのつかない後悔がじわじわと沸き上がり涙を懸命にこらえた。「はい。ここでやめます。これ以上運営にも迷惑をかけたくないので。ありがとうございました。」「そうだ。それが一番だ。よく頑張った。お疲れ様。さあ、車に乗って。」
スタートから14時間。すっかり日が沈み、底冷えするような寒さが体を締め付ける。ヘッドライトも防寒着もまだまだずっと先のエイドに預けていた。暗闇の中で凍えて動けなくなってしまったら、それこそ多大な迷惑を多くの人にかけていたかもしれない。
運営車両で白鳥振興事務所の駐車場に送られた。そこで、収容者専用のマイクロバスに乗り換える。早朝預けた手荷物を受け取り、各自着替えなどの必要な物だけを取り出して、また預けた。まだこれからリタイアする者が増えることが予想されるため、狭いバスの中では荷物が邪魔になるから、手元に残すのは必要最低限の物だけにしてくれとの事だった。ゴール後の休憩先である金沢市内の温泉施設の開店は午前5時らしい。それまではこのバスに中で過ごすのだ。今が午後8時なのであと9時間はある。疲れた体にはややこたえるが、こうしてバスの中で寒さや風をしのげるだけでも感謝である。収容バスは2台あり、1台はコース上を常時回っているようだ。運転手はたった3名しかいないらしい。深夜、運転手は額をハンドルに乗せて眠りにくそうに仮眠を取っている。限られた少ないスタッフ達が精一杯選手たちの安全を守っている。リタイアしてはじめて目にする光景だ。そういえば、リタイアして乗せられた運営車両にいたスタッフの女性は80歳を過ぎていると言っていた。慣れない手つきでスマホを操作し、リタイアした私の事を本部や関係各者に伝えていた。他の方も若くても60代後半だった。スタッフの高齢化と人員不足。限られた予算の中で、わずか80名にも満たないランナーのために4日間サポートとおもてなしに徹している。恐らく世界中どこを探してもこんな大会は見つからないだろう。
早朝5時。金沢市内にある温泉施設へ到着する。リタイアしたランナーも、完走を果たしたランナーも皆一度ここで休息し、夕方まとまって郡上市内の宿泊施設まで移動するのである。私もここで10時間以上のんびりと過ごすことになるのだ。どうやら走っている時間よりも、休んでいる時間の方が長くなってしまったようだ。
温泉にゆっくりと浸かり、休憩スペースで仮眠をとる。トップのランナーは午前中のうちにもうここへやってくる。足を引きずって苦痛の表情を浮かべながらも、その目は達成感に満ちた力強い眼差しをしている。たった30時間ぶりの再会だが、お互い濃密な時間を過ごしたゆえ、話し出すと止まらない。
施設内の大きな食堂で仲間たちの他愛のない話にゲラゲラ笑いながら、酒を酌み交わした。正面のステージでは売れない女性歌手が叫ぶように熱唱し、何かを伝えようとしている。そして今この時も兼六園を目指して懸命に走っているランナーがいる。彼らの安全を守りながら、懸命に応援するスタッフや仲間がいる。どんな立場であれ、どんな状況であれ、何も考えず、皆それぞれのタスクを単純明快に遂行すればよいのだ。そして私は酒を飲み、仲間の大切さを身をもって感じ取るのだ。崩れそうな私を懸命に支えてくれた仲間。崩れてしまった私をさっと引き起こしてくれた仲間。彼らの優しさを何も考えず純粋に受け入れることがきっと今の私のタスクなのだろう。
あっという間に過ぎ去った4日間であった。変態ランナーたちのお花見旅行珍道中。4日前までは、ランナーとして参加することがすべてだと思っていたが、なんだかすっかり価値観が変わってしまった。走る事よりも支える事の方がよっぽど難しいじゃないか。
どうやら、ケガは大したことないらしい。1ヶ月ばかりじっとしていれば治るだろうという診断を受けた。きっと来月にはまた走りでいる。もう、速くなくてもいい。想いが伝えられるランナーになりたい。たくさんの仲間からハートやソウルを受け継いだ。それを若い世代に伝えるんだ。たった一人でもいいから、だれかの心を動かしたい。こんな素晴らしい事を終わりにするなんてもったいないだろう?